岳本コラム

当コラム欄は、本来であれば岳本先生の手によるご研究やエッセイが出るべきところと思われますが、その“柿落とし”を、一生徒による企画・編集で、先生へのインタビューで飾らせていただくことになりました。岳本先生の生徒の皆さんが、日頃のレッスンのなかで、広範な知識にもとづく奏法や技術のご指導のみならず、先生の片言隻句にまであふれるユーモアと生真面目の不思議な共存に、おおいに楽しまされ、また励まされていることと思います。
そんな岳本先生の魅力をより多くの方々にも知っていただけたらという、生徒の皆さんの思いを代表しての、ロングインタビューです。全5回に分けてお届けいたします。
生徒:太田香保

2014.07.21/岳本先生インタビュー(1)

■ おいたち編―前のめりな熱中時代

Q:先生がピアノを始められたのは10歳とのことですが、
普通だと「遅い」といわれる年頃ですよね?

T:そうですよね。遅すぎるくらい。幼稚園の4歳か5歳のとき、父親が突然おもちゃのピアノを買ってくれたことがあった。それでいきなり「赤い靴」を弾いたんですけど、そのときはそれで終わり。ぜんぜん関心もたなかった。
しばらくして小学校に入学した頃、近所のカワイ楽器店に親が勧められて、毎月いくらかずつを積み立てて、それが満期になったある日、突然、家にオルガンがやってきた。そのオルガンにすっかり夢中になってしまったんです。9歳の時です。

Q:家でオルガンを買うというのは、そのころはよくあったんですか?

T:あのころはピアノの前にオルガンから入るという人が多かったんですね。まずオルガンをやって、いけそうだなと思ったらピアノに転向するという時代です。まだエレクトーンがそれほど広まっていなかった。オルガンのほうが主流だった。
オルガンが家に来て、すぐにすごく興味もち、1カ月後にはレッスンに行き始めました。自分で「行きたい」って言って、親を教室に連れて行って申し込みをしてもらったんです。その年の冬、初めて発表会に出て、「荒城の月」を合奏しました。

Q:ピアノへの転向はどのように?

T:オルガンの発表会に出た直後から、「ピアノをやりたい」と言い出してました。たぶん、音楽教室でピアノを見てやりたくなったんでしょうね。ああ、小学校のときの音楽の先生が横浜国大出身で、男の先生だったんですけど、よくモーツァルトの『トルコ行進曲』を弾いてくれた。その影響もあったのかな。 これはあとで親から聞いたんですけど、「ピアノを買え、買え」ってものすごくうるさく言ったらしいです。その当時も今も、どちらかといえば、親から「やりなさい」と言われてピアノを始める子どもが多いと思うんですが、ぼくは自分から「やりたい」って言い出したんですね。
でもピアノは高級品だし、親にしてみると子どもがいったいいつまで続けられるかなんてわからないわけでしょう。よく買ってくれたと思いますよ。19万8000円のカワイのピアノでした。で、5月からオルガンからピアノのレッスンに切り替えました。
それから1年後、小学6年生になってたんですが、親にも相談せずに音楽学校を受験しようと無謀なことを考え始めたんです。担任の先生には話していたらしくて、6年生の秋になって、先生が家庭訪問に来たとき、「お宅のお子さん、音楽で中学受験するそうですね」と言ったので親が仰天してしまった。

Q:そこまでピアノにのめり込めたのはなぜですか?

T:ほかに取り柄がなかったんですよ(笑)。かといって、音楽が得意なわけでもなかったし、通信簿では音楽で「2」をとったこともあるくらい。ただ、楽器としてのピアノにものすごく惹かれたんです。音楽が好きとかピアニストになりたいということじゃなくて、ともかくピアノが大好きだった。
ピアノのカタログを見るのも大好きでした。男の子がクルマのカタログを見るのと同じ感覚ですね。いろんなメーカーの細かい仕様とか塗装の違いを全部覚えました。いまだにそうです。塗装をみるだけでメーカーもわかるし、ピアノのカタログは一日中でも眺めていられます(笑)。それくらいピアノが好きです。

Q:ピアニストになりたいというわけでもなかった?

T:「ピアニスト」と呼ばれる人がいるということはわかっていたと思います。ピアノのカタログにピアニストの写真が載っているのをよく見ていましたから。ヤマハはリヒテル、カワイはワルター・クリーンでしたよ。で、「こういう人になればいいのかな」と考えて、ピアノの上にリヒテルの写真を貼ってました。そのころ、リヒテルの全盛期だったんです。ピアノをやっていれば「こういうふうになれる」って思い込んでたんでしょうね(笑)。

  • ワルター・クリーン

    ワルター・クリーン

  • スヴャトスラフ・リヒテル

    スヴャトスラフ・リヒテル

■ 先生を困らせた中学時代

Q:ご両親は、音楽学校の受験に反対されなかったんですか?

T:びっくりはしてましたが、咎めもせずにやりたいようにやらせてくれました。でもピアノの先生には猛反対されました。実際にも、国立(くにたち)音楽大学の付属中学を受験して、見事に落ちました。なにしろ、ソルフェージュもやったことがなくて、受験のときに「これなんですか、どうやればいいんですか」って聞いちゃったんですから。

Q:受験のための準備を何にもしなかったんですか?

T:ちょっとは、やりましたよ。冬になってからですけど。1回だけ、国立の先生のところにレッスンを受けに行きました。でもそんなことやっているだけじゃ、落ちますよね。いまでもその話を国立の人に話すと、「そんな子を入れるわけないじゃないですか」って笑われます(笑)。
それでも「公立の中学は絶対いやだ」って言い張って、国立を紹介してくれた人から東邦音楽大学の付設中学校を勧められて、なんとか入れてもらえました。そのまま中学・高校と東邦です。
入学してからも大変でした。ピアノを始めてまだ3年目ですからね。ソナチネも入試で弾いた1曲しかできないし、ブルグミュラーもツェルニー100番も入ったばかり。同級生はみんな最低でもツェルニー30番とバッハのインベンション、ソナタくらいは終わってますからね。先生のほうが困ってました。入ってから100番を延々とやらされた。
でも中1の秋の試験で、モーツァルトのDdurのロンドを弾いてるんです。中2になってなんとウェーバーの「ロンド・ブリランテ作品62」。よくあんな曲をあのときやらせてくれたと思います。

Q:中学のときはどんな先生に教わったんですか?

T:すごく怖い女の先生でした。指をつかんで鍵盤を叩かされたり、肩をはたかれたり。3年間その先生でした。先生が言ったことに対して「こうやるんですね」って言うと、「わかっているならやりなさい」って怒られた。先生に対して確認しちゃいけないんだ、と思ったりしましたね。
中学2年から先生の家にもレッスンに行くようになった。当時そういうことが流行っていたんです。だからレッスンは週2回。いまだと考えられないですけどね。

Q:そんなに怖い先生だと、練習がイヤになりませんでしたか?

T:もっと弾けるようにならないと困ると思ってましたから、ぜんぜんイヤにはならなかったです。ただその2年生のときのウェーバーのロンド・ブリランテはちょっと失敗してしまって、すごく落ち込みましたね。学校のすぐ横に大塚公園という大きな公園があるんですが、そこに一人で行って、「またやろう」って思い直したりしました。そこを通るたびにそのときのこと思い出しますよ。

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中2のとき練習した楽譜

Q:まじめな生徒だったんですね?

T:そうでもなかったんですよ。中学時代は学校で教わることじゃなくて、自分のやりたいことをしたい放題やって、しょっちゅう一人でコンサートに行ってました。制服着て、学校のカバンを持ったまま、池袋のパルコで何か食べて、コンサートに行くんです。贅沢にも松本楼とか入ったりして(笑)。それとか、弾けもしないのに楽譜を買いまくってました。ツェルニー100番も終わってないくせに、リストのソナタの楽譜を買おうとして、学校のヤマハの売店のお姉さんから「これ、弾けるの?」なんて聞かれたりしたこともありました。 中学時代に購入したリストのソナタが何と280円の値札が付いていました。
勉強はぜんぜんしなかったので、英語力は1学年の1学期でとまったまま。にもかかわらず、ドイツ語を勉強したいと言い出したこともありました。ドイツ語の本を持ってみたいというそれだけの理由で。ともかく、できもしないのに、表面的なことからどんどん入っていっちゃう子どもだったんですよ。
でも、当時は子ども用に書かれたものが今のようにそれほど多くなかったんですね。ベートーヴェンのことを知りたければ、おとなの読む本を買うほかないし、ドイツ語だって、いまのように便利な速習の参考書なんかない。東京外国語大の先生が書いたような難しい本しかなかった。そういうのを見て自分なりになんとかやろうとしてました。
多少ドイツ語を覚えると、楽譜のカバーを自分でつくったりしてね。古いドイツ文字で「BACH」なんて書いたカバーをね。なにかそうやって立派な楽譜をもっていたかったというか(笑)。

liszt

中学時代に購入したリストのソナタ

Q:なんだか前のめりな子どもだったんですね(笑)

T:今でも、歩き方がそうなっているとよく言われます(笑)。

■ ケンプ先生に花束を

Q:そのころに行ったコンサートで思い出深いのは?

T:なんといってもケンプ先生です。中三のときに東京文化会館と新宿の東京厚生年金会館に聴きに行きました。どうしてもケンプ先生に会いたくて、お花をもっていけば会えると思って、花束もって行ったんです。忘れもしない、1972年10月28日のことです。
それがいま思うとすごくおかしなことをしちゃったんですよ。ケンプ先生にあげるなら日本の花がいいだろうと考えて、菊を花束にしてもらったんです。菊を束にしたらまるで仏さんにあげるお花みたいでしょう。あのときケンプ先生は77歳でしたから、仏さん用の花なんて、縁起でもないですよね(笑)。
それで厚生年金会館に行ってみたら、コンチェルトをやる日だったんですね。厚生年金のホールってオケがステージ下のボックスに入っていて、ピアノのあるステージに行きたくても行けないんですよ。困ってしまって「お花をどうやって渡せばいいんですか」ってオケの人に聞いたら、「そこの階段からあがればいいよ」って教えてくれて。それがフルートの大御所の小出信也さんだったってあとからわかったんですが。
その日はシューマンとショパンの2番をやったはずです。お花を渡すことばかり考えてドキドキしてたし、理解するにはとても難しい曲でしたが、すばらしい響きだなと子どもごころに思いました。で、演奏が終わって、教えてもらったとおり階段をあがってステージに行ったんです。ふつうコンチェルトではアンコールはやらないので、そのタイミングで渡せると思ったんです。ところがケンプ先生がアンコールの演奏をするために、さっさとステージを出ていっちゃったんです。それで困っていたら、係りの人に舞台袖に連れて行かれて。
アンコールは確かケンプ先生が編曲したバッハの『主よ人の望みの喜びよ』だったと思うんですが、それが終わってから、舞台袖でやっとお花を渡せました。でも、そんなところでいきなり「わっ」って渡したから先生をびっくりさせちゃって(笑)。「ケンプ先生を驚かせたなんて、あなただけですよ」ってあとあとまで言われました。
あのころ、ケンプ先生は神様でしたからね。日本に来たときはちょっとお疲れで、77歳の老人らしく弾いてましたけど、まだまだヨーロッパで聴いた人には「青年のように生き生き弾いていた」なんて言われていたころですよ。

  • Schuman

    シューマン:ピアノ協奏曲の楽譜

  • Chopin

    ショパン:ピアノ協奏曲第2番の楽譜

(サインはジャン・ロドルフ・カールス氏のもの)  いずれも学生時代に練習した楽譜

Q:ケンプの写真はいまもピアノのそばに飾ってらっしゃいますね。バックハウスの写真といっしょに。

  • ヴィルヘルム・ケンプ先生

    ヴィルヘルム・ケンプ先生

  • ヴィルヘルム・バックハウス先生

    ヴィルヘルム・バックハウス先生

T: バックハウス先生は、ちょうどぼくがピアノを弾き始めた翌年(1969年)に亡くなってます。バックハウス先生のレコードを初めて買ってもらった日の夕刊に訃報が出たのでよく憶えてます。「あ、このレコードのおじいさん、死んじゃった」って思いました。「ワルトシュタイン」と「情熱」と「告別」の入ったレコードで、しばらくそればっかり聞いてました。
もし「無人島に何を持っていきますか」って聞かれたら、バックハウス先生とケンプ先生のCDを持っていきますね。それさえあれば、あとは何にもいらない。それくらい、いまも好きです。ショパンだってバックハウス先生の演奏が好き。リストだってケンプ先生の演奏が好き。こう言うと、みんな考えられないって言うんですが(笑)。

■ ピアノの歴史を網羅し尽くしたい

Q:そういう前のめりな日々は高校時代も続いたんですか?

T:高校に入るともっとすごくなりました。高1のときに武蔵野音楽大学を受けると決めて、月3回ほど学校とはべつに、武蔵野音大の先生にも教わったんです。そこからは楽譜も二つ使い分ける日々ですよ。先生が書き込みしたらバレてしまうから、学校の先生に教わるとき用と、音大の先生に教わるとき用と、それぞれ楽譜を用意 して。
ラクして東邦に行けばいいのにとずいぶん言われました。もちろん東邦に行くにも試験はありますが、出来が悪い人でも短大には入れると言われてました。でもそうしたくないという思いがずっとあった。国立に落ちたというトラウマがずっとあったんでしょうね。
しかも音楽の予備校にも行きました。いまは尚美学園大学というんですが、そのころ音大の予備校をやってたんです。武蔵野の先生からも「君は音楽学校に行っているのに予備校にも行って、ずいぶん用意周到だね」と言われたけど、武蔵野受けるなら武蔵野の聴音とかソルフェージュをやらないといけませんからね。
だから、学校と音大の先生のレッスンと予備校と、3ヵ所に通ってたわけですよ。いま振り返っても、よくやってたと思います。

Q:そこまでやるモチベーションは何だったんですか。誰か励ましてくれる人がいたんですか?

T:そんな人はまわりにいませんでしたよ。唯一、高校から教わった女性の先生がものすごくエネルギッシュで、「君はやる気があるんだから、絶対にうまくなる」って筆書きの年賀状を送ってくれたりしましたが、武蔵野の先生(故・高橋誠教授 ウィーン国立音楽大学卒、ハンス・グラーフ門下)からは、「落ちるかもしれないから、いまのまま大学に進んだほうがいいんじゃないの、浪人したら引き続きレッスンはしてあげるけど」と言われてました。
だから何がモチベーションになっていたかというと、ともかく「弾けるようになりたい」という思いだけですよね。やはりピアノを始めたのが遅かったですしね。いまの若い人はよく、「楽器が合わない」とか「先生がきらい」とかすぐに言い出しますけど、ぼくのばあいはそんなことを言っている余裕すらなくて、「どうすれば弾けるんだろう」ということだけで24時間アタマがいっぱいでした。高校3年生のころは、学校に行って一日中、7時間でも8時間でも弾いてました。

Q:武蔵野に入られてからもその練習熱は続いたんですか?

T:さすがにイヤになってきましたね(笑)。当時の武蔵野は芸大の滑り止めでしたから、1クラスぶんは芸大をめざしてきて、もうちょっとの差で芸大に行かれるような人たちがいるんですよ。そういうトップクラスの人たちは本当にすごい演奏するんです。やめようとは思いませんでしたが、さすがにピアノ弾きとしては、先が見えてきた気がしましたね。
でも大学の授業はすごくおもしろくて、音楽学的なことにものすごく関心を持ち始めました。音楽学を学びたいとも思い始めていました。原書を読んで楽理的なことを学ぶんです。英語が苦手だったくせに、英語の本も買ってなんとか読むようになりました。文章はわからなくても、そこに載っている譜例でわかったりしますから。 いまになってそのとき買った本をよく見ています。それから、歴史が好きだったので、ピアノの歴史にもはまりました。

江戸でピアノを

書籍 : 江戸でピアノを

Q:いままで出された本でもピアノの全歴史を網羅されてますね。『江戸でピアノを』なんて日本史と音楽史を重ねた本まで。

T:もともと中学生のころから世界史が好きで、その後日本史のほうに関心をもつようになって、ついには日本史と西洋音楽史を合せることがおもしろくなっていったんです。自分で年表をつくって、「ああ、綱吉とバッハは同じ時代なんだ」なんてことを合わせているのがたまらなく楽しくて(笑)。本当は将軍よりも天皇のほうが好きなんですよ。だから、日本の歴代天皇の時代と音楽史を合わせたかったんですが、出版社から「そんな本は売れません」て反対されちゃいました。確かに、歴代天皇の時代なんて言われても、普通の人にはピンと来ませんよね。それで徳川十五代の時代と音楽史を合わせる本で妥協しました(笑)。
一時期は、ピアノのシステムの変化とかその変遷を歴史順にぜんぶ調べようとしたこともあります。でも専門家に聞いたら、「そんなの無理です」って。もうなくなったピアノもありますからね。それこそ日にちを追うようにして、ピアノに関することぜんぶを知りたかったんですけどね。

Q:とことんやらないと気が済まない性格なんですか?

T:物事の端から端まで、最初から終わりまでを全部みないといられないですね。一部分だけ見るというのはがまんできない。何かを買うときも、そこにおいてあるものですぐに決められない。何があるのか一通り全部みたいというほうです。
ピアノに関しては、若いころは「もっと知りたい、知りたい」って思いをいつも募らせて焦っていたようなところもありましたね。最近は歳をとっていい加減になって鷹揚になりましたけどね。やっぱりずっと前のめりだったんですかね(笑)。

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